~受け継いだ声、つないでいく歌~
木村徹二が語った家族への感謝と「歌い続ける」ということ
力強い歌声の合間に飛び出す、思わず笑ってしまうユーモア。
けれど、その言葉を一つひとつたどっていくと、そこにはいつも「家族」への深い尊敬と感謝があった。
~受け継いだ声、つないでいく歌~
木村徹二が語った家族への感謝と「歌い続ける」ということ
力強い歌声の合間に飛び出す、思わず笑ってしまうユーモア。
けれど、その言葉を一つひとつたどっていくと、そこにはいつも「家族」への深い尊敬と感謝があった。
父・鳥羽一郎。
叔父・山川豊。
そして兄であり、数々の作品を生み出している木村竜蔵。
演歌界を代表する歌い手たちに囲まれて育ち、自らも歌手の道を歩む木村徹二。
兵庫県三木市で行われたステージでは、歌だけではなく、家族だからこそ知る素顔や、
大な先輩たちから受け継いだもの、そして歌手としてこれから歩んでいく未来への思いを、
たっぷりと聞かせてくれた。
会場は何度も大きな笑いに包まれた。
けれど笑いの奥にあったのは、家族への愛情と、歌えることへの感謝だった。
「今日はどっちも来ていない。やり放題です(笑)」
「木村家には歌い手が何人かおりまして」
そんな言葉から始まった家族の話。
父・鳥羽一郎、叔父・山川豊、兄・木村竜蔵。
親子、兄弟、叔父と甥――さまざまな組み合わせでファミリーコンサートを行う機会も多いという。
そこで家族の間には、ある“ルール”があるそうだ。
それは、
「一緒に出演する人の歌は歌わない」
というもの。
父と一緒なら鳥羽一郎の歌は歌わない。
山川豊と一緒なら山川の歌は歌わない。
ここまでは、とても納得できる話なのだが――。
「親父と一緒の時は、来ていない山川さんの歌を歌うんです(笑)。
山川さんと一緒の時は、親父の歌を歌う。
居ない人の歌は取ったっていいんです(笑)」
そしてこの日は、
「今日はラッキーなことに、どっちも来ておりませんので!
やり放題でございます!」
会場は大爆笑。
偉大な父と叔父をこんなふうに笑いへ変えられるのも、
そこに確かな敬意と家族ならではの信頼があるからだろう。
笑いのあと、木村は父の代表曲『兄弟船』を心を込めて届けた。
「雨」と「海」――同じ演歌でも、こんなにも違う
幼い頃から、鳥羽一郎と山川豊という二人の歌を間近で聴いてきた木村。
だからこそ気づいた、それぞれの“声”の魅力があるという。
山川の歌には、雨や夜の街、ネオンが似合う。
しっとりと響く低音には、大人の色気がある。
一方、鳥羽の歌に浮かぶのは、青空の下に広がる大海原、船、港。
声を張った時にスコーンと抜けていくような力強い高音が、人を元気にする。
同じ演歌でも、まったく違う世界。
幼い木村は「二人が逆のタイプの歌を歌ったら、どうなるんだろう」と考え、
実際に本人たちへ尋ねたことがあったという。
すると山川は、力強く張り上げるような歌について、
「ああいう歌は俺には歌えない。お兄ちゃんに渡す」
そして鳥羽も、山川が得意とするしっとりとした歌について、
「ああいう歌は俺には歌えない。豊に渡す」
と答えたという。
お互いの得意なものを知り、自分にない魅力を認めている。
競うのではなく、尊重する。
演歌界を長年歩んできた兄弟の、表からはなかなか見えない絆が垣間見える話だった。
そして最後には、
「その両方を兼ね備えているのが……木村徹二でございます!」
しっかり自分へ着地させ、また会場を笑顔にした。
「兄貴が曲を作れる。それが一番のラッキーでした」
木村がもう一人、何度も感謝を口にした人がいる。
兄・木村竜蔵だ。
自身の作品の多くで作詞・作曲を手掛けている兄について、木村はこう語った。
「僕が生まれてラッキーだったと思うことはいくつかあります。
親父が歌をやっていたこと。
そして、その親父がこの仕事に就かせてくれたこと。
あとは……単純に歌がうまかったこと(笑)」
笑いを交えながら続けた言葉が印象的だった。
「でも何より一番よかったのは、やっぱり兄貴が曲を作れるということ。
これが何より大きなラッキーでした」
兄は演歌を作るために数多くの作品を聴き、学び続けてきたという。
弟だから褒めるのではない。
一人の作家として努力する姿を間近で見てきたからこそ、その言葉には実感がこもっていた。
ステージでは、この日行われたカラオケ大会にも触れた。
自分の歌がたくさん歌われれば、その作品を生み出した兄にも届くものがある。
「今日歌っていただいた分で、兄貴には
15円くらい入るんじゃないかな(笑)。
うまい棒ぐらいなら買えますから(笑)」
けれど、そのあとに語った願いはとても温かかった。
「皆さんにどんどん歌っていただいて、
兄貴にまた良い曲を作ってもらうための元気を届けていただけたら嬉しい」
兄が作り、弟が歌い、その歌をファンが歌う。
そしてその声が、また次の作品を生み出す力になっていく。
音楽は、こうして人から人へ巡っていくのかもしれない。
父からの「もう一回行ってこい」
父は家族であると同時に、歌手として44年を歩んできた大先輩でもある。
そのことを痛感したのが、『みだれ咲き』のレコーディングだったという。
普段のレコーディングは、2回ほど歌って良い方を選ぶことが多いという木村。
ところがこの日は、スタジオに父がいた。
いつものように2回歌い終え、父の顔を見る。
しかし、表情が浮かない。
「俺は良いと思うんだけど」と伝える息子に、父から返ってきたのは、
「甘いな。もう一回行ってこい!」
歌っては戻り、また歌う。
繰り返すこと、およそ20回。
ところが最後には、木村自身も驚く結果が待っていた。
20回目の歌が、一番良かったのだという。
40年以上、第一線で歌い続けてきた人だから分かるものがある。
「それだけ歌い込まないと出ないものがあるんだなと思いました」
父親だから怖い。
大先輩だから、なおさら緊張する。
そんな父の存在を笑い話にしながらも、その背中から学んだものの大きさが伝わってきた。
「俺は死ぬまで歌う」
その鳥羽も、かつては何度も「引退」を口にしていたという。
60歳になったら歌をやめる。
そして、第二の人生では蕎麦屋をやりたい。
家族に引き留められて65歳まで延期すると、今度は本気で土地を探し、道具まで揃え始めた。
「従業員はどうするの?」と聞くと、
妻を連れていくから大丈夫」
ところが隣で聞いていた妻から、
「私は行かない!」
まさかの一言。
会場が笑いに包まれる。
蕎麦屋の夢はひとまず遠のき、引退もさらに70歳へ延期された。
そして、その頃に息子・徹二が歌手としてデビュー。
親子で同じステージに立つ機会が増えていった。
ある時、木村が父に尋ねた。
「70歳も過ぎたけど、いつまで歌うの?」
返ってきたのは、短い言葉だった。
「俺は死ぬまで歌う」
何度も引退を考えた父が、最後にたどり着いた答え。
その言葉には、44年という年月を歌に捧げてきた人だからこその重みがあった。
長い感謝のメッセージに、父から届いた「うん」
家族への感謝を、木村はきちんと言葉にして届けている。
母の誕生日には、日頃の感謝を込めた長いメッセージを送った。
すると翌日、母からは、それ以上とも思えるほどの長文の返信が届いたという。
「泣きそうになりました」
そして4月25日。
74歳を迎えた父にも、同じように思いを込めた長文を送った。
すぐには返事が来ない。
翌日になって通知が届く。
どんな言葉が返ってきたのだろう。
期待しながら画面を開くと、そこにあったのは――
「うん」
たった二文字。
会場は大きな笑いに包まれた。
けれど木村は、その二文字を嬉しそうに受け止めていた。
「寡黙で不器用ですけど、その二文字に
『お前も頑張れよ』という思いがいっぱい詰まっているんです」
長い言葉だけが、愛情ではない。
ずっと背中を見てきた親子だからこそ、二文字で分かるものがある。
笑って聞いていたはずなのに、最後にはどこか胸が温かくなる。
そんな親子のエピソードだった。
受け継ぐだけではなく、自分の声で
木村徹二の代名詞でもある「アイアンボイス」。
“鉄の声”という響きから、力強さだけを想像するかもしれない。
しかし、そこにはもう一つの意味が込められている。
鉄は熱を加えれば形を変え、冷やせば固まる。
演歌歌手としてデビューする以前、兄とのポップスユニットで約10年間活動してきた経験を持つ木村。
ポップスも歌う。
演歌も歌う。
どんな音楽にも姿を変えて向き合える、柔軟な声。
それが「アイアンボイス」なのだという。
鳥羽一郎の力強さも、山川豊のしっとりとした歌世界も、兄・木村竜蔵から生まれる新しい作品も。
家族からたくさんのものを受け取りながら、決して誰かのコピーになるのではなく、
自分自身の声を探し続けている。
その現在地にある一曲が『風神雷神』だ。
「今年もまだありますし、来年以降も、この曲をすごく大事に歌っていきたい」
そう語り、力強く届けた歌声には、これから自分の道を歩いていく歌手としての覚悟が重なっていた。
「全国の皆さんに会いに行きたい」
ステージを終えたあとも、木村はファンへの感謝を忘れなかった。
この日はあいにくの天候。
それでも足元の悪い中、会いに来てくれた人たちへ、
「たくさん来ていただいて、楽しいステージになったんじゃないかなと思います。本当にありがとうございました」
と笑顔を見せた。
全国各地でかけられるという、
「うちの街にも来て」
という声。
すべての場所へすぐに向かうことは難しい。
それでも、
「時間が合えば伺いたい。
皆さんにお会いできるのを楽しみにしていていただければ」
と語った。
そして最後は、満面の笑顔で、
「じゃあねー!」
そのまま元気よく駆けていった。
ステージで見せた圧倒的な歌声とはまた違う、なんとも木村徹二らしい後ろ姿だった。
父から受け継いだ、歌い続ける覚悟。
叔父から学んだ、自分の声を知ること。
兄から受け取った、新しい歌。
そして、それを待ってくれている全国のファン。
家族に恵まれたことを「ラッキーだった」と笑うけれど、
その恵まれた環境の中で、本人もまた学び、努力し、自分にしか出せない声を磨き続けている。
いつか40年後。
父と同じように長い歌手人生を歩んだ木村徹二が、今日のことをどんなふうに振り返るのだろう。
その頃にもきっと、誰かの街で、誰かのために歌っていてほしい。
受け継いだものを大切にしながら、自分の声で次の時代へ。
木村徹二の「アイアンボイス」は、今日も人を笑わせ、人を元気にし、
そして時には、家族を思う優しい気持ちを私たちの胸に届けてくれる。
2026年10月5日
撮影 : 青木優子
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